「仏の顔も三度まで」意味と読み方
【表記】仏の顔も三度まで
【読み】ほとけのかおもさんどまで
【ローマ字】地蔵の顔も三度(じぞうのかおもさんど)/仏の顔も三度撫ずれば腹立つ(ほとけのかおもさんどなずればはらたつ)
どんなに温和な人でも、何度も無礼なことをされれば腹を立てるというたとえ。
説明
いかに慈悲深く心の広い仏でも、顔を三度もなでまわされると腹を立てるという意から。どんなに温厚な人でも、度重なるひどい仕打ちや、何度も無礼なことをされると、怒るというたとえ。「三度」の「三」とは、「過去」「未来」「現在」を表す仏教用語。ほかのことわざでも「子は三界の首枷」というものがあり、この「三界」も「過去」「未来」「現在」を表し、「子供は「過去」「未来」「現在」の生活を縛る首枷(鎖)みたいなもの」という意味。つまり「三」とはすべての時間や距離や量などと意味し、「三」がつくことわざのほとんどは、「すべて」とか「だいたいの」、「ほとんどの」などの言葉に置き換えると、それとなくピタリと合う。(「三年飛ばず鳴かず=何年も鳴かず飛ばず」/「二度あることは三度ある=二度あることは何度もある」/「三日坊主=幾日坊主」)こうした仏教用語で使われる「三」なのだが、いったいどこから来たのか?というと、古くはインドのヒンドゥー教にある三神一体(トリムールティ)理論からと言われている。三神とはブラフマン(創造)とヴィシュヌ(維持)とシヴァ(破壊)の三人の神であり、世界は常に創造されたものが維持されるが、いずれ壊れるもの。三神はそれぞれ異なる意味の概念だが力関係は同等であり、三つで調和を保つものという理論である。(古代より三神はバラモン教の時代のころから存在していたが、実際具現化されて三神一体の概念が生まれたのはヒンドゥー教以降だと言われている。)ところがこの三神一体の概念と似たようなもので、三位一体(トリニティ)というものがある。これは西洋のキリスト教から生まれた概念であり、「父と子と聖霊の御名において」と言葉にし、「三つは異なるものだが、どれも同じ神である」という教えである。三位一体はイエスキリストが教えた言葉ではなく、イエスの死後の西暦325年に行われたニカイア公会議にある。ニカイア公会議は当時ヨーロッパを統治したローマの皇帝コンスタンティヌス1世をはじめ、多くの司教たちと今後のキリスト教のあり方や解釈についてまとめようというものであった。だが、その会議の本当の意味は、三位一体の異なる解釈をする司祭は異端とし、徹底的に排除するという厳しいものだった。当時ローマにはミトラ教やマニ教それからユダヤ教があり、中でもキリスト教はかなり厳しい弾圧を受けていた。しかし、西暦313年にコンスタンティヌス1世はミラノ勅令を理由に宗教の多様化を認めてしまう。今まで弾圧されていたキリスト教もこの時にはじめて光を浴びたというわけである。喜んだのは司祭たちだった。ようやく自分たちが信じていたものが認められたから、今まで「魔王」だったローマ皇帝が、「聖王」に変わるわけである。そうなってしまうと、ほとんどの司祭はローマ皇帝を指示し、大抵おかしい事を言っていたとしても、ある程度は良しとしてしまう。中に偏屈者がいれば、見せしめのように吊るし上げてしまえば誰も逆らえない。まさにコンスタンティヌス1世の思う壺だった。コンスタンティヌス1世がなぜそこまで三位一体にこだわったのかというと、おそらくはインドの三神一体がそれとなく宗教として成功していたことを知っていたからと一説には言われている。宗教が多様化すると、人民同士で争うことは歴史でも物語っていることだが、長くキリスト教を禁止としていながらも完全に抑え込むことはできなかった。西暦235年から巨大化するローマ帝国は他民族国家であり、この時のローマは前皇帝たちが度重なる暗殺を受けてわずか50年で20回も政権交代を繰り返し、40人ほどの皇帝(候補者含む)が殺されたという非常事態であった。これを俗に後世で「軍人皇帝時代」呼ばれる時代で、ディオクレティアヌス帝が即位することでようやく安定したが、度重なる内政の再編と、皇帝に対する不信感などの問題が山積みで、いわゆる「三世紀の危機」へ突入する。その後コンスタンティヌス1世が312年に即位するもその状態がつづき、他宗教問題も解決する一つだった。
詳細
注釈、由来
【注釈】 『上方(京都)いろはかるた』
【出典元】「三度」の「三」には、「過去」「未来」「現在」を重ねた「すべて」という意味。
【語源・由来】―
「仏の顔も三度まで」の言い換え、反対、似た言葉
【同義語】
地蔵の顔も三度(じぞうのかおもさんど)/仏の顔も三度撫ずれば腹立つ(ほとけのかおもさんどなずればはらたつ)
【類義語】
地蔵の顔も三度/兎も七日なぶれば噛み付く/無理は三度/仏の顔も日に三度/堪忍袋の緒が切れる
【対義語】
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「仏の顔も三度まで」の例文
【日本語】「また約束を破ったのか。仏の顔も三度までというものだ」
【英語】
When the pot’s full it will boil over